幕張周辺の社寺めぐり

子守神社(元の名は素加天王社)
 千葉常胤の四男大須賀四郎胤信が建久五年(1194年)馬加城跡近くの台地の上に造営した。永正五年(1508年)に幕張二丁目の現在地に移す。
 三山の大祭の夜の神事では、子守の役にあたる。



子安神社(畑町)

 七年に一度の三山の大祭では船橋市の二宮神社の配偶者の神である。十仁座神楽と、毎年二月二十八日の湯立て神事が伝承されている。
 この神事は、神前に釜をすえて湯をわかし、神主が笹の枝をひたして、周りの人々の頭上に振り、凶事をはらうのである。



三代王神社(天種子命をまつる)

 千葉常胤の三男武石三郎胤盛の守護神である。神楽殿は三方吹き抜けで、黙劇風の江戸神楽の系統の十仁座神楽。



昆陽神社・秋葉神社

 火伏せの神をまつる秋葉神社の境内に蘭学者で甘藷栽培の普及につとめた青木昆陽をまつってある。昆陽は八大将軍吉宗に仕え、享保の大飢饉(1733〜34年)の翌年、江戸小石川の薬草園に甘藷を栽培し、その中の十七個を幕張の大縄地(現在夜縄)に試作し、二石七斗六升を収穫した。幕府はその後、関東各地に甘藷栽培を広めた。
 この地では天明・天保の飢饉も甘藷でしのぎ、検見川ではイモアメ、千葉寺の五田保ではでんぷんが作られ特産品となった。弘化三年(1846年)にでんぷん業者が昆陽の徳をしのんで神社を建てた。大正八年(1919年)には有志が試作地に「青木昆陽甘藷試作地」の石碑を建てる。



真蔵院(真言宗)

 千葉常胤の三男武石三郎胤盛の菩提寺。柳地蔵菩薩をまつる。
 境内の板碑は、胤盛の母をとむらうために永仁二年(1294年)須賀原の愛宕山に造立したもの。後の宝暦三年(1753年)に開墾のため真蔵院境内に移す。高さ2.3メートル、秩父産の緑泥片岩(裏面の「施主常胤」は後世に刻まれたもの)。武石氏の居館は、寺の上の台地である。



長胤寺(日蓮宗)

 千葉常胤四世の孫武石小次郎入道長胤によって、弘長二年(1262年)創建と伝えられる。
 本堂前の「夫婦梅」は、徳川家綱の頃に地元の仲代武右衛門が寄進したもので、一輪の花に二個の実がなる。句碑に「浅からぬ夫婦ぶりなり月と梅」とある。



金比羅宮(幕張二丁目)・浪切不動尊(武石真蔵院内)

 幕張の海は、馬加と習志野市屋敷町・鷺沼・武石の浜かせぎ場であった。
 この二社は、近郷近在の漁師の信仰が厚く、参拝で賑わっていたという。浜かせぎの境界は、基点を馬加村の大日堂として、「富士見おとし」と「鹿野山おとし」とした。西は船橋浦、東は検見川浦であった。面積は、約百三十五万坪(450u)であった。



宝幢寺(真言宗)

 大同元年(806年)宥恵法印の開基。JR幕張駅北側に如意輪観音を本尊として創建。火災により、二丁目の阿弥陀寺跡に明治五年(1872年)に移る。
 この年、村長さんを中心とした人達により七カ寺(阿弥陀寺・竜性院・正円寺・福寿院・延命寺・東医寺・聖光寺)を宝幢寺に合併、廃寺の財産で浜田小学校を開設した。
 本尊は密仏だが、阿弥陀如来立像・大日如来座像は、いずれも中性のすぐれた仏像で、市の文化財に指定されている。このほかにも数体の仏像が保存されている。
参考文献「メッセの町は海だった・写真集/幕張の60年」
編 者:安藤操
発行所:株式会社千秋社


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