幕張賛歌


 かつて、東京湾沿いの村々は、どこもそうであったように、低い屋根が、狭い土地にびっしりと建ち並び、軒端が重なり合い、声高の漁師言葉が飛び交う―。
 遠浅の干潟には、鳥たちがかわいい足形を残し、透明であどけない鳴き声を空に放つ―。
 初夏の風に誘われて、遠方の町や山村からも潮干狩りの客たちが人並みをつくって訪れる―。
 その前に地元の中学生たちが、干潟のノリひび(竹棒)を抜きとり、ゴミを拾って、修学旅行の費用にあてたりもした。
 潮が満ちれば、漁船が船橋・浦安方面や、隣の検見川からやってきて網を打つ。打瀬舟の白く大きな帆が、風をはらんで花見川や浜田川の河口を目指せば、浜では魚商人たちが活気の良い魚を求めて目を輝かす―。
 歴史をさか上れば、上の台・宮の台に竪穴住居の集落があり、漁業にいそしむ―。
 すでに、このあたり、遠浅の海は魚介の豊庫。縄文・弥生人の食欲を満たすのだった。
 東海道が海づたいに南を目指すと、浮島の駅、伝馬五頭では不足するほどのにぎわい。それは、今から一千二百年あまりも昔の幕張の町―。
 堂の山にどっしりと建つ五輪の塔は、戦国乱世の首塚。町の北方大地に館を構え、夷鼻の千葉城を焼き討ちにして宗家を名乗った馬加康胤のものと伝えられるが、今は東京湾にただ一つ残るタブの自然林を吹き抜ける風の音に悲しみがこもるのみ―。
 七年に一度の三山の祭りも、康胤にまつわって、今もなお連綿と伝え続けられる。船橋・習志野・八千代・千葉にまたがる二十三カ村九社の神輿が幕張の浜にかっては集まったという。
 江戸中期には、蘭学者青木昆陽が甘藷数個をこの地に試作し、関東一帯に広めるもととなる。その後の天明・天保大飢餓にも、このあたりは甘藷のお陰で耐える―。
 その遺徳を忍び、昆陽神社は弘化三年(1846年)に建てられた。
 この下総台地は、甘藷をはじめ、畑作物が豊かに獲れる。その肥料には、大都市江戸のゴミと、海岸に打ちよせるカワナ(アサオ)がつかわれた。
 明治の初めに八カ寺が統合されて、宝幢寺一寺となる。大日如来は、どっしりと座られ、阿弥陀如来は、衣紋の彫り深く安らかに立つ―。
 校庭に二本の榎木の茂る浜田(幕張)小学校には、校長として房総の偉人、石川倉治先生、又学童として山田耕筰の名も残る―。
「からたちの花」の曲のイメージは、通学路のからたちの垣根の思い出からだという。
 明治天皇行行の折りのお休み所の大菅邸は賀曽利貝塚の敷地に移され、後の皇太后を初めとする名家の娘たちが潮干狩りの折りに休まれた三橋家別荘は、既に壊されて跡形もない。
 見わたせば、かつて潮満ちればノリとり舟の往き来ありたり、潮干れば、貝とりの若者たちで賑わったあたりに高層のビルや、スタジアムが建ち、もうMAKUHARI/MESSEに世界各地から商売の使者たちが訪れるのだ。
舟 唄

沖の白帆は 帆に風うけて
江戸へ積み荷の舟あし軽く
アレサ 五大カ 五十石
富士は朝焼け 日がのぼる

浜野白帆は 帆に風うけて
夕河岸めざすは舟あし軽く
アレサ けえ(貝)舟おらが舟
鹿野は夕焼け 鳥も帰る

打瀬舟かよ かもめどり
今日も大漁の帆を上げて
アレサ 満月 潮が湧く
行くは浜田か 花見の川か
ヨーイヤサ コラショ

参考文献「メッセの町は海だった・写真集/幕張の60年」
編 者:安藤操
発行所:株式会社千秋社


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