三山の七年祭・かたりつたえ

 宮山(三山)の七年祭といえば、そりゃあ大したお祭りだ。何しろ、二宮神社の神そろい場にはよ、九つの神社の神輿が勢揃いするほどだ。それで、鷺沼の浜でミソギをした三山(船橋)の者たちが先頭で、ぐるうりと船橋・習志野・千葉を練り歩いて、幕張の浜で磯出の式をする。その道道では、丘目・ひょっとこ踊り、稚児行列、女たちの花笠流しの踊りや、山車なども出るから、そりゃあ賑やかなもんだ。
 畑(千葉)の井原家一族からは七つの男と女の子が選ばれて、この行列の真ん中にいて、真夜中の磯出の式では、ハマグリを交換する「両男女」という大事なつとめをする。このお祭りの起こりは、こんな話が伝えられている。

 昔むかし、今から五百年あまりも昔のことだ。
幕張の館の主、千葉康胤の奥方が十月十日を過ぎても、子供が産まれる様子がなかった。そこで心配した康胤は、素加神社(幕張)と、宮山(三山)神社の神主に安産のお祈りをさせた。その満願の夜に、「両神社の神を波の寄せる清い磯辺にしばらく移してまつれば、安産である」というお告げがあった。そこで、二つの神社の神輿を幕張の磯辺にまつると、その夜、海中から竜頭があがって素加神社へ飛んできた。そして次の日に男の子が誕生したという。康胤は、とても喜んで、領地の村々におふれを出して、幕張の浜辺でお祭りをした。村々からは、鞍に御幣を立てた馬がたくさん集まってきて、お祝いをした。

 これを見て喜んだ康厚保は、幕張郷を馬加郷と変え、子守神社を建て、立派な神輿をつくらせた。その後、千葉家は一族が争い、お祭りも消えてしまっておったが、今から四百年ほど前にまた復活し、二百六十年あまり前のお祭りでは馬加の磯に竹の垣を結い、二宮(三山)・子安(畑)・三代王(武石)・子守(馬加)・の神輿をまつった。この年から七年に一度の磯出のお祭りが行われるようになったという。このお祭りに加わる神社には、つぎのものがる。二宮は父、八王子(古和釜)は王子、菊田(久々田)は叔父、大原(実籾)は叔母で仲人、子安は母、子守は子守、三代王は産婆、時平(大和田)は長男、高津比刀i高津)は娘、姉ヶ崎(市原市姉ヶ崎)は姉の役だという。
 後に馬加康胤は、千葉城を攻めて千葉介を名乗ったが、京の都におった一族の東常縁に攻められ、市原市八幡宿町の雁田川のほとりで討ち死にした。そこに胴埋塚がある。その首を密かに埋めたのが、堂の山の五輪塔で、首塚とも伝えられているが、墓は八幡(市原市)の無量寺にある。
参考文献「メッセの町は海だった・写真集/幕張の60年」
編 者:安藤操
発行所:株式会社千秋社


[戻る]