堂の山「首塚」伝説

 康正元年(1455年)、馬加城主の康胤と、千葉家の重心の原胤房は、猪鼻城を焼き討ちにする。本家の千葉介胤直は千田荘(香取郡多古町)に逃れ自刃。康胤は千葉宗家を名乗る。
 この頃の関東地方は、古河公方(足利成氏)派と、上杉管領(房顕)派とが対立しており、馬加康胤・原胤房連合軍は、古河公方派であった。
 時の将軍足利義政は、千葉一族東常縁(美濃国郡上郡山田庄領主、歌人としても名高い)の康胤追討の願いを許した。常縁は、関東に向かい、下総国中の兵を集め、馬加城を攻める。
康胤は戦いに敗れて、康正二年(1456年)十一月、上総の八幡(市原市八幡)の雁田川のほとりで死亡した。千葉宗家を名乗ること、わずか一年八ヶ月であった。康胤の遺体は、八幡の地(無量寺に五輪塔があり、八幡宿町観音町に胴埋塚がある)に葬られたが、家臣によって首は堂の山に運ばれて埋められたという。また、この塚は、戦乱の死者を葬った所ともいう。後の応仁二年(1468年)七月十六日に供養塔を建て、さらに寛永十年(1633年)に今の五輪塔が建てられた。
 馬加城は花見川と浜田川に挟まれた字道城台の小高い台地の先端に千葉常胤の四男胤信によって築かれた。今は、マンションと畑になっていて、その面影もない。胤信が埴生郡(香取郡下総町)に移った後は千葉家が城を守っていたが、十五世紀の中頃馬加康胤が、ここに住んだのである。
 享徳元年(1452年)の幕張大明神の祭礼に祭り用の馬を多く集めたことから、馬加大明神と改め、この地を馬加郷と改めたという。それ以前は、千葉郡大須賀荘須賀原とか、大須賀荘幕張本郷などと呼ばれていた。なお、地方伝説では源頼朝が、この地で陣幕を張ったことによるとか、その折りに馬が足りなかったので、馬を加えたとか言う話も伝えられている。

宮城野馬五郎重美の墓
 堂の山の山裾に大日堂がある。その参道を上ると右側に供養塔が建っている。
馬五郎は、一丁目も「紋重郎の家」(鈴木家)に寛永五年(1793年)五月五日生まれ、稲毛村の川嶋家の養子となる。十八歳で身長六尺五寸、しろうと相撲の大関を張る力持ちであった。
 あるとき、江戸の力士荒馬源弥が巡業の途中、田んぼの畔道で一荷の肥桶を天びん棒の先に下げて差し出した若者の怪力に驚き、弟子とした。二十歳で荒馬の名をつぎ、文化八年(1811年)に横須賀侯の抱え力士となり百石をもらったという。
 また、文化十一年(1814年)入幕、関脇まで昇進、天保六年(1835年)四十三歳で引退、四代目年寄宮城野馬五郎をついだともいう。
 寛永二年(1849年)七月十六日、五十七歳没。宝幢寺の過去帳に「浄華基釈大道信士俗名荒馬大五浪紋十郎家」とある。
参考文献「メッセの町は海だった・写真集/幕張の60年」
編 者:安藤操
発行所:株式会社千秋社


[戻る]