いも神様のはなし

 幕張駅から東京よりに少し行くと、左側に小高い丘があって秋葉神社が建っていた。その境内に、もう一つ別の鳥居があって昆陽神社があった。共に、今は計画道路拡張工事のためにその面影はない。
 この神社は天保年間(1830〜1843年)に村民が相談して作り直したもので、落成は弘化三年(1846年)であるという。
江戸日本橋の魚問屋の佃屋半右衛門お一人息子として生まれた文蔵は、学問を好み京都で儒教を学んだ。その後、江戸にもどり、当時の町奉行大岡越前守忠相によって、幕府の書物方となり、号を昆陽と名のる。友人で、サツマイモを研究していた松岡如庵の「蕃藷禄」を読んで、飢饉を救うためにサツマイモを栽培することを考えた昆陽は「蕃藷考」という書をあらわした。
 享保十七年(1732年)の夏、中国・四国を中心に西日本をイナゴがおそい、農作物に大きな被害が出、米価が急に上がった。そのため、米の行商人を人々がおそい「打ちこわし」が各地で起きた。その翌年には、幕府のご用米を扱う江戸の米問屋までも、打ちこわしにあうほどだった。
 「蕃藷考」が忠相から将軍吉宗の目にとまり、命をうけて、昆陽は江戸小石川の薬草園(東大小石川植物園)で、サツマイモの苗づくりにとりくんだ。そして苦心の末にできた五千六百五十一本の苗を薬草園と忠相の領地の上総豐海村(山武郡九十九里町)不動堂と下総国馬加村(千葉市幕張町)字夜縄に植えた。豐海では、この年不漁だったので、魚がサツマイモを嫌うためだという噂が広まって、栽培は普及しなかった。関東地方では新しい作物なので「毒がある」とか「罪人の食べ物」だとか言われて初めは普及しなかったという。
 ところで、天明の大飢饉のおりに馬加の地では、サツマイモのお陰で餓死者を出さなかったというので、昆陽に感謝して神社を建てたという。昆陽の墓は、東京都目黒区滝泉寺にあり、「甘藷先生の墓」という自筆が残っている。
参考文献「メッセの町は海だった・写真集/幕張の60年」
編 者:安藤操
発行所:株式会社千秋社


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